どうやら昼食後に吸った煙草が最後の一本だったらしい。なんの疑いもなく手を伸ばし、開けた箱の中で空気だけを掴んで指先が重なった。この一連の流れの後で漸く中身が空であることに気が付いた。こんなことは初めてだった。喫煙という日常の一部に溶け込んだ動作も、思い返せば今日はいつにもなく機械的だったのかもしれない。いつ吸ったのか、何本ほど吸ったのか、そもそも元から何本あったのか。そのどれもが一つとして思い出せない。視界の端に映る灰皿には、吸殻が幾重にも積み上がっている。当然ストックを買っているはずもなく、俺は重い腰を上げてコンビニへ向かうことにした。
マンションのエントランスを抜けた瞬間、上着を羽織ってくるのを忘れたことを後悔した。まだ冬には程遠いはずなのに、季節の境目のような冷たさが思った以上に肌に刺さる。空はどんより曇っていて、陽射しの温かさも期待できない。歩道脇の植え込みの葉が、風に揺らされてかすかに擦れ合う音だけが耳に残る。
その上曲がる道を一本間違えて無駄に遠回りする羽目になった。
いい加減自分にうんざりする。今日起きてから今までの時間、ずっとどこか上の空であることにも、その原因があの人であることにも。
吹っ切れたというと言葉が違う気がするけれど、もう忘れられそうではあった。一方的に覚えていたって仕方がない、そう思っていたのに顔を思い出せなくなる間際に必ず夢に出てくる。ぼんやりとした輪郭がその度になぞられて、存在をありありと浮かび上がらせる。『忘れさせてやらない』とでも言いたげに、4年前最後に見た姿のままの彼は、どこか誇らしそうに俺の上に股がっていた。
そんな夢を見た矢先、昨夜のことだった。
仕事を終えた22時過ぎの最寄り駅に入る間際、ロータリーを歩く俺の横に低いエンジン音と共に車が並走する。暗がりでもわかる程の黒光りの車体と駅の電灯に照らされてちかちか光るエンブレム、人影も疎らで街灯も少ないこの街には不釣り合いな高級車。不審感からか少し足早になる。追い抜く直前、横目に運転席を見るとタイミングよくゆっくりと窓が下降していく。目前に迫る駅にまもなく入れる安心感からか、こんな車に乗っているような金持ちの身なりくらい確かめてやろうという好奇心が勝った。凝視する窓の向こうの暗闇の中で肌の白さだけが淡く浮かび上がり、輪郭が形を帯びていく。
その顔を、俺はよく知っていた。
「絢斗さん……?」
反射的に名前を呼んだものの、現実味の無さに遅れて心臓が大きく脈を打つ。立ち止まったまま動けないでいる俺を、絢斗さんは車内からじっと見ている。沈黙を貫く視線に、逃げ道を塞がれるような感覚がした。ひやりと夜風が首筋を撫でる。
張り詰めた空気を破ったのは、向こうの方だった。
「久しぶりだね、汐緒」
その落ち着き払った声音には、何の動揺も感じられない。俺がこの時間、この場所に現れることをずっと前から知っていたのだと悟った。
「こんなところで、何してんすか」
咄嗟に出た言葉は俺の意に反していた。今更なんの用ですか、とでも言って突き放してしまえればよかった。そもそもいつから?もしかしてずっとつけてたんですか?それとも探偵でも雇って特定したんですか?ストーカーっすか?ていうかストーカーとやってること同じじゃないすか?そもそもアンタは一体今までどこで何してたんですか?言いたいことはとめどなく湧いて出てくるのに、喉の奥がひりついて上手く声に出来なかった。そんな俺を見透かしたように、絢斗さんが僅かに目を細める。
「乗って。話があるんだ」
だから何を今更、俺には話したいことなんてないです。もうあんたのことは忘れたいんですよこっちは。忘れられると思ってたんですよ、本当に、どういうつもりなんですか?だってあんたは俺のことなんて……頭上に並ぶ断る理由が女々しさを含み始めて俺は黙り込んだ。悔しい、素直に嬉しいと思ってしまうことが。そんな気も知らない絢斗さんは、俺が選ぶ次の行動をただ静かに待っている。俺が断らないことだけは確信している、そういう穏やかな顔をしている。なんて憎らしい人なんだろう。初めて会った頃からそうだった。俺の身体は無色透明で、自分でもどこにあるのかわからない心の場所をこの人は知っていて、その心の中でぐちゃぐちゃに絡まった何かが何なのかも全て知り尽くされている。そういう錯覚に陥る浮遊感にどこか懐かしさを感じる。
こんなに悔しくても憎らしくても突き放す言葉を投げつけられなかったのは、絢斗さんの方から会いに来てくれたことが嬉しくて嬉しくてたまらなかったから。俺ずっと会いたかったんですよ、すごく会いたかった。でも何処にいるのか知らないし、かと言って捜されたりするのは嫌かなと思って。だからもう俺の知らない所でとっくに死んだことにして捜しても無駄だって言い聞かせて、でもそれじゃ死んだって証拠を探したくなるから次は最初から居なかったことにした。絢斗さんって人間は俺が作り出した架空の存在だから、俺の想像の中でしか生きていないから、実在しないことにすれば会えるわけがないって別に納得は出来ないけど変な妄想をしてやり過ごした。そうやって頑張って忘れようとして、頑張ってる時点で矛盾してるけどもう声も顔も本格的にうろ覚えになってきて、いよいよ俺の妄想が現実になりそうって頃合いにあんたは絶対夢に出てくる。超能力でも使ってんじゃねーの?って思ったよ、現実的に考えて有り得ないけど。わかってる、俺が絢斗さんのことを考えてるからってことは。
唐突に脳内によぎるワンシーン。はだけた衣服の隙間から、上気した素肌が見え隠れする。俺を見下ろす絢斗さんは喘ぎ混じりの浅い呼吸を規則的に繰り返している。徐々に速くなる律動に合わせて俺の首にかけた絢斗さんの手に力がこもる。食い込んだ指先に気道を完全に塞がれても苦しくはなかった。俺は腰を掴んでいた片手を離し、手の甲で絢斗さんの頸動脈に触れた。汗ばんだ首筋にどくどくと拍動を感じる。
「汐緒、一緒に逝ってくれる?」
互いから漏れる息の音に紛れて絢斗さんの上擦った声だけがはっきりと意味を持っていて、返事をしようとした瞬間に俺は現実で目を覚ます。繰り返し見るこれが俺の願望から生まれた夢なのか、実体験から得た記憶を夢として思い出しているだけなのか、もうわからなかった。どちらにせよ俺の答えは同じだった。
「汐緒?」
意識が現実に引き戻される。絢斗さんは窓から流れ込む冷気に肩を竦めながら腕をさすっていた。
「……勘弁してくださいよ」
脈略の無い俺の発言に「俺なにか言ったっけ?」と不思議そうに笑う絢斗さんを無視した。例え俺の答えがあんたの望むものだったとしても、何も言ってやらない。どうせ言わなくたってあんたは俺の答えをきっと知っている。だからこんな抵抗も無意味なんだろうけど。
拒絶の隙間に紛れ込んだ場違いな期待を振り払えないまま、俺は助手席のドアに手をかけた。