応援して下さっている皆様に大切なお知らせ。

──常日頃よりNeogymへご声援を賜り誠にありがとうございます。
突然のご報告となりますが、朔麻(Vo)は2月4日をもちNeogym脱退を決定致しました。また、朔麻脱退に伴いメンバー間で話し合いの結果……


初めて音楽に触れた日のことは覚えていないけれど、初めて音楽を手放した日の記憶だけは今も鮮烈に胸に残っている。これしかないと信じて生きてきたのに、突如として失ったあの感覚を俺はきっと死ぬまで忘れられない。

会場を包み込む熱気と歓声。内臓を震わせるベースとドラムの轟音。闇を切り裂くように点滅する無数のライト。名前を叫ぶ観客の顔、揺れる無数の腕。頬を伝う汗。緊張と興奮で跳ね上がる心拍数。その渦中で俺はステージの中央に立ち、マイクを握りしめていた。あの感覚もまた、決して色褪せることはないだろう。もうあれから10年もの月日が経つというのに、未だに夢に見るのだから。

父の影響で海外メタルに魅了され、気づけばバンドという存在に憧れていた。中学二年の頃に初めて仲間を集めてバンドを組んだが、楽器が出来るという条件だけで集まったメンバー達では納得のいく音は生まれず、卒業とともにあっけなく解散。高校に進んでからはネットを駆使して同じ趣味や志向の合う仲間と出会い新しいバンドを結成した。それからの日々は学校にも足を向けずスタジオに籠もり練習に明け暮れる毎日だった。スタジオとバイト先、メンバーの家を行き来する日々、そして時折帰る自宅。そんな俺に両親は「憧れから始まるよくありがちな失敗パターンだ」と口を揃えて言った。学業を捨て音楽にのめり込んでいく俺を馬鹿にする友人もいた。夢を追うことに賛同してくれる者は、ひとりとしていなかった。でも俺は本気で音楽をやっていきたかった。なぜだかわからないけれど、俺には自信があったから。

出席日数が足りず進級することなく高校を中退してからはこれまで以上に音楽へと身を投じた。努力の甲斐もあってかバンドも右肩上がりに勢いを増したが、競い合い、蹴落とし合いながらのし上がることには何も快感は得られなかった。ただ「これが現実なのだ」と自らを納得させることに必死だった。ファンが増えるほどその声援は重圧に変わっていった。初のワンマンでは現実の厳しさを目の当たりにして自信がなくなった時もあった。何度も押し潰されそうになった。それでも、支えてくれるメンバーやファンの温かい言葉、夢を追うことを反対した親や友人への見返しを糧に俺は今までやってこれた。バンドという強い絆の中で歌うことさえ出来れば俺は生きていると実感できた。あの光と音の渦の中で歌っていた時間こそ、俺のすべてだった。

休む間もなくステージに立っていない時間は移動とリハーサルに費やされていく。ひとつの余白すら許されない無茶苦茶なスケジュールに追い立てられながら駆け抜けた、インディーズとしての最後の一ヶ月間。命を削るように積み上げてきたツアーも今夜ついに幕を閉じた。
外では珍しく雪が舞っていた。白い粉は決して積もることなく、ネオンに照らされながら淡く落ちて溶けていく。機材を車へと運び込む仲間たちを横目に、俺は先に後部座席へ身を滑り込ませた。真っ黒な衣装の上から重たいコートを羽織り、さらにマネージャーがかけてくれた毛布に包まれても身体の芯からせり上がる寒気は止まらなかった。熱を帯びているのに指先は氷のように冷たく、仲間がかけてくれる何気ない声にすら返事をする気力はなかった。

次に目を覚ましたとき、そこは病室だった。
白い天井と消毒液の匂い。腕には点滴が繋がれ、動かそうとした右腕に鈍い痛みが走る。ライブが終わった直後に舞台袖で倒れたことを思い出した。窓を開けに来たナースは俺に気づくと、すぐにどこかへ人を呼びに行った。しばらくして現れたのは病院には場違いすぎる二つの影だった。全身黒づくめの服に、派手な色で染めた髪。一番気心の知れたギターのサト君とドラムのリーダーだった。
「朔、大丈夫か?」
俺は小さく、けれど確かに頷いた。
「サト君」
そう呼んだつもりだった。けれど声は空気にすらならなかった。サト君は俺の唇を読み取ったのだろう。瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す。顔を隠すように俯きながら「うん」とだけ返事が聞こえた気がした。

声が、出なかった。わかっていたんだ。
ツアーの後半から続いていた違和感は、ただの疲労ではなかった。

診断は冷酷だった。
過度の酷使によって生じた声帯ポリープは、手術を避けられないほど進行していた。手術自体は成功に終わったが、再発は高い確率で繰り返すだろうと告げられた。さらに心因性の失声症──精神的な衝撃で声が閉ざされているのだと医師は言った。重なり合う不運にもはや笑うことすらできなかった。メジャー目前にしてボーカルが声を失うなんて悪趣味な冗談のようだ。俺はボーカル失格だと自分を罵ることしかできなかった。歌えないこと自体よりも、仲間に迷惑をかける未来のほうが恐ろしかった。もし続けたとしても、この先何度もメンバーに迷惑をかける。ファンに公演延期の知らせだって何度するかわからない。それが何よりも辛かった。支えてくれるメンバーを、応援してくれる人々を裏切ることだけはどうしてもしたくなかった。

後日、リーダーにだけ思いを伝えた。殆ど音にならない言葉を拾いながら、彼はただ黙って頷き続けてくれた。そして子供みたいに泣きじゃくる俺を強く抱き締めて「お疲れ様」とたった一言。その優しさと温かさに涙が止まらなかった。

辞めることが裏切りに繋がるかもしれないと思わなかったわけじゃない。けれど、不調のたびに裏切るよりも潔く区切りをつけたかった。俺は確かに歌が好きだった、叶うことならばずっと歌っていたかった。この先の未来も歌っていられると信じていた。でもそれ以上にバンドそのものを、仲間と過ごす時間を何よりも大切に思っていた。
──だからこそ、ここで終わりにする。
それが俺にできる最後の誠意だった。本当に、本当にネオジムには感謝している。俺は青春のすべてをここに置いてきたのだから。

あの後、ネオジムは解散した。
メンバーはそれぞれに新たなバンドを組み、違う場所で自分たちの音を響かせている。
雑誌では「朔麻脱退」と評されたが、後日リーダーが解散にまつわるインタビューでこう語っていた。
──「ネオジムのボーカルは、朔麻しか考えられなかった」
その一言を紙面で読んだ瞬間、不謹慎にも安堵した自分がいた。あの日々は確かに夢のようだった。その夢を、俺の声を、ネオジムの最後の思い出として刻んでくれてありがとう、込み上げてきたのは感謝の思いしかなかった。

時が流れ、数年後。ふと立ち寄ったのは、新宿にある馴染みのスタジオだった。かつて何度も通い詰めた場所。業界からは完全に離れた俺だが、音楽からは決して離れることができなかった。もう歌うことはなくても、リーダーに教わったドラムを叩くのが今の俺のささやかな楽しみだった。皮肉にもそれは音楽への執着を手放せない証だ。俺はまだ夢を完全に諦めきれてはいなかった。

スタジオの奥の部屋から、僅かに重低音が漏れ聞こえてくる。壁越しに伝わる振動に耳を澄ましたとき──がちゃん、と何かが落ちるような鈍い音がした。ほどなくしてドアが開き、一人の男がこちらへと歩いてくる。
ブリーチで抜きっぱなしの金髪を乱し煙草を片手にしたその姿はどこか荒んで見えた。それでも切れ長の大きな瞳は、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。すれ違いざま彼は立ち止まり、凝視するように俺を見た。一瞬、俺は「もしかしてファンだっただろうか」などと場違いな期待を抱いた。けれどそれはすぐに掻き消える。男は深く息を吐き、冷静さを取り戻すかのように唇へ煙草をあてがった。銀色のピアスが並ぶ口元から思いがけない言葉が洩れる。
「……入りませんか」
静かな、けれど確かな響き。見た目に似合わぬ敬語に、わずかな緊張が滲んでいた。
その瞬間、世界の音が遠のいた気がした。俺の中で眠り続けていた何かが再び目を覚ます。形は変わってもまた「バンド」という集団の一員として音を鳴らすことができる。ステージに立つことが全てだったあの頃の自分と、再び重なり合うのを感じた。
──そして俺は、もう一度この世界に呼び戻される。失ったはずの声の代わりに、今度は鼓動そのものを鳴らすように。