朔麻復活ライブと銘打たれた一夜が終わった。
正直、半ばやけくそだった。ここ最近の倍以上の動員数を収容できるほど箱で日程が決まったとき、俺は観衆の前で晒し者になる覚悟を迫られた。いっそ中止に、と胸の奥で願ったが、蓋を開ければチケットは瞬く間に完売。追加分もすぐに捌け、当日はキャパを完全に超えるほどの熱気に溢れ返った。ステージから見下ろす光景は、犇めく観客の群れ。餌を待ちわびる鯉のように口を開き名前を叫び、ただただこちらに熱狂を求めている。俺の後ろでドラムを叩く彼──かつてはこのポジションで光を浴びていた人間の存在の大きさを嫌でも思い知らされる。あの日の俺も、朔麻さんから見ればこの鯉の群れの一匹にすぎなかったのだ。
「朔麻さんの名前だけで売れるようなバンドには成り下がりたくないです」
前日、うちの最年少でベースのマコトが放った言葉が脳裏に蘇る。真剣な眼差し、張り詰めた声音。重苦しい空気を引きずったまま迎えた本番だったが、今となっては大きな会場を押さえたマネージャーの読みは正しかった。ソールドアウトという結果が雄弁に物語っている。それほどまでに、それだけ朔麻という名をこのジャンルの歴史に刻んだ彼の音楽業界への復活はデカいもんだったらしい。見縊っていたわけじゃない。ただ、想像を遥かに超えていた。
「お疲れ」
差し出されたペットボトルを反射的に受け取る。そのまま去ってくれと祈ったが、彼は浅くため息を吐き俺の隣に腰を下ろした。ライブ後の駐車場脇、機材の搬出作業が長引く裏手の影。煙草の煙が朔麻さんの方に流れないように身体の向きを少しだけ傾けた流れでさりげなく振り向いた。メイクを落とした素顔の朔麻さんは、長いブランクを埋めるように全力を出し切った疲労の痕跡を滲ませていた。ライブ中の騒がしさとは打って変わって静かな夜の中、肌から立ち上る温度が隣から伝わってきて息が詰まりそうになる。今はどうしても二人きりになりたくなかった。
「空気悪くしたから、気にしてるんだと思って」
沈黙を破る声に、曖昧に首を振る。マコのことを庇うつもりも、朔麻さんを味方するつもりもなかった。ただ、HYENAに朔麻さんを誘ったのは他でもない俺だった。その事実が重くのしかかる。あまりにも格が違う人間を、俺たちの底辺バンドに組み込んでしまったのは間違いだったのかもしれない。
「……後悔してる?」
そんなことを訊きたかったんじゃないのに。数秒間、俺の顔をじっと見つめた後に返ってきたのは「まさか」の一言と、無垢な視線。
二年前、半ば冗談混じりで投げかけた「入りませんか」という誘いに頷いた彼の本心は今もわからない。初対面の奴に「入りませんか」なんて、胡散臭いにも程があるだろ。だってそこにいたのが、数年捜し求めていた彼だったんだ。誰にも渡したくない、自分のものにしたいという欲が俺の奥底に渦巻いていたのも否めない。アンチ共が吐き捨てた『バンド名はお前そのもの』という言葉が正論に思えて仕方がなかった。
「ガイが誘ってくれたから、俺は戻ってこれたから」
その一言に封じ込めていた感情が沸々と蘇る。もう二度と会えない、会えたとしても相手にされないと思っていた人が今は隣にいる。さっきまで同じステージに立ち同じ歓声と光を浴び、同じ音を奏でて、同じ景色を見ていた。今は言葉を交わしている。その声で俺の名前を呼んでくれている。彼の瞳には今、俺だけが映っている。その事実だけで脈拍が速くなる。あの日の、ライトに照らされて汗を伝う首筋と照明に照らされた眼差し、初めて覚えた性的な昂ぶりまでもが鮮やかに蘇った。
その日は雪の降る寒い日だった。本当なら外に出るつもりなんてなかったのに、チケットを手に入れたと騒ぐバンドメンバーに引き摺られるような形で俺は会場に連れて行かれた。バンドを組んでいる身でありながら、他所のバンドにはまるで興味がなかった。今日連れて来られたライブもバンド名は知ってる程度で、インディーズで最後のライブだから!なんて熱弁されても心底どうでも良かった。正直、一刻も早く帰りたかった。
それなのに、ステージに立つ彼の姿を見た途端その気持ちは完全に消え去った。
圧倒的な存在感、心臓を貫く歌声、ライトに照らされた汗の伝う首筋、眼差し、全身に稲妻が落ちたみたいに俺は指一本動かせなくなった。会場内に立ち込める熱気とスモークの中で、朔麻さんのいるステージだけが色濃く輪郭を縁取っていた。
朔麻さんはこの日を最後に表舞台から忽然と姿を消した。俺の朔麻さんとの最初の出会いが、朔麻さんにとってボーカルとして最後の舞台になるなんて、思いもしなかった。
「ありがとね」
気づけば衝動的に胸倉を掴んでいた。カチャリ、と互いの唇のピアスがぶつかり合う音がする。
「ちょっと……もうライブ終わったけど」
朔麻さんはそれほど驚きもせず、ライブ中のファンサービスとでも捉えられたみたいで。未だ興奮している俺を困ったように笑って宥めようとする。その仕草さえ火に油を注ぐ。拒絶でも抵抗でもなく、むしろ受け入れていると錯覚させる。俺は朔麻さんにしがみつき、無理やり舌を捩じ込んだ。流石に拒まれることを想定していたのに、まるで待っていたかのようにすんなりと絡め取られた。粘膜の感触、絡めて吸って離れてを繰り返す度に下腹部が疼く。呼吸がどんどん浅くなる、熱の逃し方を失って体温が上がるのを感じた。ダメだ、歯止めが効かなくなる。ベロに埋め込まれた金属球が裏筋をなぞり、口内に微かに鉄の味が広がった。
──これじゃあ、まるで俺が。
あの日の貴方に生まれて初めて欲情しました、なんて言ったら怒るだろうか。